Return to site

10/14礼拝説教「子どもたち、偶像から自分を守りなさい」ヨハネの手紙 第1 5章21節/カオリンのレスポンスノート

吉備教会の青年による、まとめとコメントです。

· 今日の聖書

 「子どもたち、偶像から自分を守りなさい」 ヨハネの手紙第一 5章21節

 キリストの愛の中に生きることをヨハネの手紙は教えてくれた。第一ヨハネの特徴の一つが21節。偶像という言葉が最後にだけでてくる。短い一行の命令で突如手紙が終わる。

 この偶像とは何のことだろう。
 聖書の箇所を正しく解釈したいときは、まずは前の文脈をたどること。

 前節の20節にヒントがある。

「また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」ヨハネの手紙 第一 5章20節

 ここではキリストを正しく理解した恵みが強調されている。それを受けての21節の「偶像」なので、この場合の偶像は、キリストから目をそらそうとする、この世界のあらゆる虚像と言えよう。
 そう理解すると19節の内容とも一致する。


「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。」ヨハネの手紙 第一 5章19節

 偶像に従うというのは、まことの神様ではないものに仕える、信じるということ。

 私たちが警戒するべき「偶像」について聖書から3つのポイントを確認したい。
 

 1つ目は、金銭崇拝。
 お金に仕えるなら、お金が神様になる。旧約聖書時代の代表的な偶像であったバアル神は、豊穣儀礼の神であった。民は、自分の繁栄の手段としてバアル崇拝に走った。自分の欲を叶える神様を愛すること。結局のところ、それは自分中心そのものであり、自分の欲が神となっている。
 もしも、まことの神様に従うなら、生きていくのに必要なものは神様が満たしてくださる。金銭に支配されてはならない。

 2つ目は、自己拡大。
 自分自身が大きくなることに心捉えられる私達。理想的な自己像を作り、それに縛られる。

 アダムとエバの原初の罪も、「あなたは神のようになる」というサタンの誘惑に応えるものであった。自分が神になりたい、という根源的な高ぶり。

 自分にこだわる時、自分の目指す理想像が偶像にり、自分の作った理想像に支配されている。

 しかし、それは、今のままの私ではダメだ、という自己否定ともなる。
 イエスさまは罪人の私たちのために十字架にかかり、現実の私達と、今を、共に、生きてくださっている。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」ヨハネの福音書 15章9節
 とイエスさまは言われる。今すでに愛しているから、その中で喜んでいなさい。と言われるのである。
 イエスさまのいるところが私たちの居場所。

 3つ目は、世の中という神様。
 世の中を愛するとき、また恐れるとき、私たちは自分を見失う。「世間体」が私たちがイエスさまを見ることを妨げてしまう。
「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」箴言 29章25節
 人々を恐れ、神様を後回しにするなら、世間が偶像となる。
 特に私達日本人は人の目に支配される。しかし、この世間の基準というのは不確かで実態がない。それゆえ、世間に支配されるとき、私達は自分自身が何者なのかもわからなくなる。


 私たちをキリストから目を離させる虚像。金銭崇拝、自分へのこだわり、世間体。

 この世界に生きる限り、こういった虚像に影響される可能性がある。
 

 しかし、ヨハネは十字架のイエスさまを示してくれた。
 「この方を見ていたら大丈夫」と。十字架のイエスさまを見る時、私達は自由であり、自分が何者であるかを見失うことはない。


 聖書が偶像礼拝を禁じているのは、神様が私たちを愛しているから。木や石で作った像よりも人ははるかに優れていて、神様の子どもとして造られたものであること。

 人間は神様の子どもとしての尊厳を与えられている。

 キリストの十字架の愛を知った今、何を恐れ、何を隠す必要があるのか。
「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」マタイの福音書 9章2節
 この言葉は私たち一人ひとりへのことば。


「子どもたち、偶像から自分を守りなさい。」ヨハネの手紙 第一 5章21節
 

 それはつまり、イエス様ご自身の愛の命令。わたしを見ていなさい。わたしを愛しなさい。どこにも行かないようにしなさい。ということ。
 イエスさまの愛の中が私たちの居場所。

 いつだって答えは十字架のイエスさまにある。イエスさまの十字架の前に立つとき、そこには喜びがあり、回復があり、新しい一歩がある。

 ずっとこの方の愛の中に居続けよう。「子どもたち」と呼んでくださる、神様の愛の中にいつまでも留まろう。
 この世のものから身を守り、私たちは十字架のキリストを見上げて祈る者たちであろう。

「私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わり」(1:3)なのだから。

〈コメント〉
 偶像と聞くと、木や石で作られたものをイメージしますが、神様より大事なものができたらそれは偶像なんだよな、と思いました。
 それが人であったとしても、です。
 どんなにその人が正しい人、素晴らしい人、大事な人であったとしても、人は、所詮、人です。同じ神様から造られた者です。だから、私は本当に見るべき方をいつまでも見続けていきたいと思わされました。もし、その正しい人、素晴らしい人、大事な人からつまずきを与えられたり、傷つけられる時があるのなら、それはイエスさまの方を見ることのできる大チャンスだな、とも思いました。

 あと、今日のみことばを聞いてとても安心しました。
 自分自身にこだわったり、自分自身が目指す理想像が偶像になっていく。でも私は今すでにイエスさまから愛されていて、その愛の中で喜んでいたらいい。
 ああ、なんかもう、自分の理想像を求めたりしなくていんだな、と。このイエスさまの愛の中にいていんだと思わされました。そのままの自分でいんだと、思いました。
 心が自由になり、平安が与えられました。そう思えてることが今の自分にとって、とても幸せです。
 愛されていること。その愛の中で喜んで生きていいこと。そのまま受け止めていんですね。
 感謝です。

All Posts
×

Almost done…

We just sent you an email. Please click the link in the email to confirm your subscription!

OKSubscriptions powered by Strikingly