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10/28吉備教会礼拝説教「喜びの始まり!」 ルカの福音書1章5-23節/カオリンのレスポンスノート

吉備教会の青年による、まとめとコメントです。

· 今日の聖書

「喜びの始まり!」 ルカの福音書1章5〜23節

「ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。
 さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
 祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
 彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。
 すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。
 これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。
 御使いは彼に言った。『恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。
 その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
 その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、
 イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。
 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。』
 ザカリヤは御使いに言った。『私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。』
 御使いは彼に答えた。『この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。』
 民はザカリヤを待っていたが、神殿で手間取っているので、不思議に思っていた。
 やがて彼は出て来たが、彼らに話をすることができなかった。それで、彼が神殿で幻を見たことが分かった。ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口がきけないままであった。
 やがて務めの期間が終わり、彼は自分の家に帰った。」


 私たちは「神様がおられるのにどうして?」と思うことがある。神様のことを疑ってしまったり、神様に期待しなくなってしまうこともある。
 でも神様は生きており、確かなご計画を持っていてくださる。

 ザカリヤにも悩みが二つあった。
 一つはザカリヤには子どもがいなかったこと。これは個人的なもの。
 もう一つは、イスラエルがローマ帝国に支配はれていること。イスラエルという国が他の国に支配されるようになってしまった。神の国でなくなってしまったこと。

 ザカリヤはその事実を諦めて受け入れようとしたのだろう。
 

 そんな時に神様のみわざが起こった。
 神殿で祭司の仕事をしていた時に御使いが現れた。

「彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。
 すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。
 これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。」
 ルカの福音書 1章10~12節

 祭司にとって、香をたくというのは重要な仕事であった。ザカリヤの人生に一度あるかないかの経験だった。

 神様に最も近づく瞬間。聖なる働きをしている時に御使いがきた。
 御使いの出現によってわかることは、神様は遠い方ではなく、私たちの現実に来てくださり、介入される方であること。
 ザカリヤは「恐怖に襲われた」と書いてある。すなわち、彼は神様がこんな風に現れてくれると思っていなかったし、私たちの生活に近づかれる方だとは思わなかった。

 ザカリヤは神殿で礼拝をしていながら、どのように礼拝するかを見ていて、どなたを礼拝しているのかを見ていなかった。

 神様は礼拝の中にいてくださる方。
 「私たちが」ではなく、主が共におり、祈る方がいてくださる。
 御使いが口を開いた時、神様はザカリヤの気持ちすべてを知っていた。

「御使いは彼に言った。『恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。
 その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。』」

   ルカの福音書 1章13~14節

 大変な喜びの知らせをザカリヤは受けている。
 「神様は祈りを聞いてない」「祝福を与えられない」と私たちがそう思うなら、それは間違い。

 神様は私たちの願いを軽んじないお方。
 神様はザカリヤの願いをご存知だった。

 神様は喜びの始まりをここで宣言している。
 「ヨハネ」は「主は恵み深い」という意味。
 

 私たちは主に大胆に期待するものでありたい。
 なぜなら、神様は私たちの願いを軽んじず、共にいてくださり、祈りを聞いてくださり、私たちの生活に介入してくださるお方だから。

 私たちは心の内の真の願いについて、あきらめることがある。本当に願っていることを忘れてしまうことがある。この箇所では私が本当に願っていることを問われる。
 

 私たちを愛される天のお父様は私たちの祈りに関心を持ってくださるお方。
 神様はザカリヤの大きな願いも叶えてくださる。

「『その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、
 イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。
 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。』」
ルカの福音書 1章15~17節

 神様からこんなに離れてしまった、イスラエルの現状。しかし御使いはもう一度神様に立ち返らせるんだ、と言っている。
 ザカリヤの個人的な願いと全体の願いを合わせて聞いてくれる。神様の祝福は抜かりがない。主がことをされるときは必ず祝福がある。

 神様は信仰者の願いを用いて、大きなご計画の中に組み込まれ、用いられる。
 私のうちにある切なる願いを軽んじないお方。
 その切なる願いを大胆に神様に持っていく。
 そうすることで切なる願いが神様の大きなご計画に組み込まれていく。

 大切なのは自分自身の言葉で祈ること。
 神様が愛しているのは飾りをつけたあなたではなく、神様が造られたそのままのあなたを愛しているから。

 残念な事にザカリヤは御使いが言ったことを信じなかった。
 失望が多いと目に見えないものを信じることができなくなることが人にある。

 しかし、主がみことばを語られたなら、みことばの上に立って進むべき。

「ザカリヤは御使いに言った。『私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。』
御使いは彼に答えた。『この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。』」
ルカの福音書 1章18~20節

 みことばは必ず実現する。神様はまずみことばを語られる。
 世界が造られたときも神様のみことばから造られた。

 でもザカリヤはしるしを求めた。
 しるしを求めたことでザカリヤにしるしが与えられた。神様はザカリヤを口をきけなくした。
ザカリヤは与えられたみことばをずっと見つめて時をを待った。
 

 喜びの時が始まった。疑う時ではない。
 神様を信頼し、みことばを信頼する。
 生活の中に介入され、私達の願いを軽んじない神様。
 

 私たちを大きなご計画の中に組み込んでくださる方。

 現実の私たちとともにいてくださる方。
 みことばは実現する。そしてそのみことばを信頼する。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。

 ──主のことば──
 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
 雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。
 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」
イザヤ書 55章8~11節

 最後に
 私たちにとって本当の願いは何か。
 みことばは何を約束してくださっているか。

 みことばがあるならば、絶対に導いてくださる。

〈コメント〉
 今日のみことばを感謝します。

 私は目に見えないと不安になり、諦めてしまいそうになることがあります。みことばが語られていたとしても、待つ期間が長いほど辛く感じてしまうこともあります。
 でも神様はそんな私の願い、祈りを軽んじないお方であること。不安な気持ちも、諦めてしまいそうなそんな思いもすべてを打ち明けることで神様は私にいつも平安を与えてくださるな、と改めて思わされました。

 みことばが語られているのなら、みことばに立って進みたい。辛いとこを通るかもしれないけれど、悲しいとこも通るかもしれないけれど、みことばを信じて歩みたい。

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