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11/4吉備教会礼拝説教「このことばにひどく戸惑って」 ルカの福音書1章24-34節/カオリンのレスポンスノート

吉備教会の青年による、まとめとコメントです。

· 今日の聖書

「このことばにひどく戸惑って」ルカの福音書1章24-34節

 

24 しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。そして、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言い、五か月の間、安静にしていた。
26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
28 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
30 すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」

 

 信仰があることは素晴らしいこと。
 神様を信じていないとうろたえてしまう。しかし神様のことを信じているとこれからの出来事ははっきりとわからなくても、現状を受けとめていくことができる。

 

 神様のことばは実現する。

「さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
御使いは入って来ると、マリアに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』」ルカの福音書 1章26~28節

 

 26、27節でマリヤが処女であったということが強調されている。それは、旧約聖書のイザヤ書で預言されたことの成就。

 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」
 イザヤ書 7章14節

 これはイエス様が誕生する750年前に書かれている預言書。
 神様はザカリヤとエリサベツの大きな奇跡に続いて、マリヤに驚くべき奇跡をされた。
 この世にキリストが来るという途方のないより大きな奇跡が起きようとしていた。

 マリヤは婚約中の身であり、ダビデの家系であるヨセフと婚約していた。ダビデの子孫から救い主が来ると預言されていたことが成就する。


 御使いガブリエルからマリヤへの宣言。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
 おめでとうとは「喜びなさい」という意味のギリシャ語。また、恵まれた方とは恵みを受けた方ということ。
 喜びと恵みの本質が、続く一言で説明される。それは「主があなたとともにおられる」ということ。それが聖書の恵みの本質。

 主がともにいてくれる。ここに救いがあり、ここに愛がある。
 聖書が伝えたい祝福とは「主がともにいてくださる」ということ。
 福音の持つ豊かさは「主がともにいてくださる」の一言にまとめられる。
 

 ほんとうにキリストがともにいてくださるようになる。
 神のことばが人となって今来ようとしていた。
 キリストは実際に地上に現れてくださった。
 信じる人には救いが与えられ、1人1人のうちにキリストが住まわれる、という救いのわざが現れた。

 

 では、マリヤはこの知らせを聞いてどうしたのか。

「しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」ルカの福音書 1章29節

 彼女は戸惑った。喜びよりも戸惑い。期待よりも不安だった。
 私たちは受け止めきれないことに遭遇すると、どちらかというと喜ぶよりも戸惑う方を選んでしまう。傷や痛みを持ちながら生きてきた人は、今まで受けたことを考えがち。
 しかし、聖書は教えている。主は愛を持って新しいことをなさることを。

 

「すると、御使いは彼女に言った。『恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。』」ルカの福音書 1章30節

 

 「恐れるな」ということばが聖書の中に幾度となく書かれている。それはどの時代の人たちも恐れていたから。しかし、神様は「こわがらなくていい、わたしがともにいるのだから」といわれる。
 

 ここではマリヤの名前を呼んでいる。
 神様は、名を呼んで「わたしがあなたとともにいる」と言ってくださる方。
 

 時に生きることは恐いことかもしれない。過去の悲しみがあったら、未来が恐いかもしれない。
 

 そんなときは立ち止まって考えてみたい。

 第一に、聖書はなんと言っているのか。
 そして、主はどこにおられるのか。

 「恐れるな、わたしがあなたとともにいる」
 神様がそう言ってくださっていることを知って、私たちは大胆に歩んでいくことが必要。

 

「『見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。』」
ルカの福音書 1章31~33節

 

 御使いはマリヤに神様のご計画を知らされる。
 聖書の約束がマリヤの体の中に実現する。それは、私達にも言えること。

 私の中にもキリストが住まわれるのだから。


 信仰を持つということはとんでもないこと。

 

「マリアは御使いに言った。『どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。』」ルカの福音書 1章34節

 

 マリヤは救いのわざの大きさを受け止めきれなかった。私たちに差し出されているキリストの救いもまた、途方もないもの。
 でも私たちはそれを信じている。

 

 神の子が私の名を呼んでくださる。
 神の子が私のために死んでくださる。
 神の子が私とともにいてくださる。

 

 私たちのキリストが心に住んでくださる。その恵みを受け止めていく。
 この身を神様にまかせていこう。恵みを受け続けていこう。
 私のうちに主がおられる。これからの生涯は恵みしかない。

 

「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。
見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」イザヤ書 43章18~19節


〈コメント〉

 みことばを感謝します。
 そして私に信仰が与えられていることに感謝します。

 みことばを聞いた後に祈りの時がありました。
 お祈りした時に私の中で「恐れ」を感じました。自分自身の中では「今はもうない」と思っていたけれど、そこで初めて「恐れ」があることに気がつきました。
 過去のことは過去のことだ、と頭の中ではわかっているはずなのに、気持ちは過去の方に引きづりこまれるような感じでした。

 神様は愛を持って新しいことをされる方。
 神様が新しいことをされるなら私もその新しい方に目を向けたい。
 過去にあったことも大切だと思う。
 未来にどんなことが起きるのかと考えるも必要だと思う。
 でも「今」神様は何をされ、何を語ってくださっているのか、を私は知りたい。人は生きているから気持ちなんてコロコロ変わってしまうけれど、その日その日に語られている、神様のことばを聞いて、受けとめていきたい。
 新しいことをされる神様に私も日ごとに新しくしていただきたい、と強く思いました。
 だって、神様が心に住んでくださり、ともにいてくださるのだから。

 「恐れ」という気持ちはまた起こるかもしれない。でもその「恐れ」という気持ちが起こるたんびに神様に素直に祈れる者でありたい。

 マリヤに起こった奇跡。
 私にとっては救われたこと自体が奇跡です。
 救われて、信仰も与えられて。
 そしてイエス様がともにいてくださるなんて。
 ことばでは言い表す事のできないほどの喜びです。

 今週も礼拝をささげ、新しい一週間をスタートできることを感謝します。
 愛するお一人お一人もこの1週間主とともにあって、守られていきますように。

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