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9/16礼拝説教「祈りを聞かれる神」ヨハネの手紙第1 5章13-15節/カオリンのレスポンスノート

吉備教会の青年による、まとめとコメントです。

· 今日の聖書

「祈りを聞かれる神」 ヨハネの手紙第一 5章13-15節

 イエス様の愛の中。それが私たちの互いの居場所。「ここにいるべきだ」と言っていただけるのは何という喜びだろう。

 私たちには最大の宝、武器がある。それは祈りである。私たちは神様に祈ることができる。神様に直接話すことができる。これは驚くべき恵み。

「神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」
ヨハネの手紙 第一 5章13~14節

 イエス様は私たちに祈りを教えてくれた。それが主の祈りであり「天の父よ」という呼びかけから始まる。
 私たちが神様に祈る、その祈りは親子の関係として祈るということ。子どもが父親に話すように祈ること。
 イエス様を信じる者は神様の子どもであり、息子、娘なのである。

 親子の関わりでの祈りには、2つのポイントがある。
 

 1つは、親子のような全き信頼関係で祈ること。
 2つは、御心を知った上で祈ること。

 1つ目の「親子のような全き信頼関係で祈る」というのは、神様に大胆に祈る、ということ。信頼しきっていいし、大事なこともなんでも話していい。

「人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか。──主のことば──天にも地にも、わたしは満ちているではないか。──主のことば。」
エレミヤ書 23章24節

 天地を造られた方と親子のつながりを私たちは持っている。ここに満ちておられる方。
 この方がいるということは、失望させられることがない。ということ。
 「天のお父さん」に今の全てを委ねる。大胆に信頼して何でも祈ることが大切。
 自分の無力さを感じる時は失望する時ではなく、天の父の素晴らしさを目撃する時。
 無力な自分を感じる時は神様の出番。なぜなら、私たちは無力であるけれど、神様は力ある方だから。

 2つ目の「御心を知った上で祈る」というのは、御心にかなう願いをするということ。そのためにはまず、神様の願い、神様の心を知る必要がある。

 私たちは聖書を読むことで、また教会に来ることでみことばに触れることができる。そのみことばに触れることによって、愛の深さを知ることができ、さらに御心を知りたいと願う。
 

 聖書の命令は、私たちを縛るためのものでもない。聖書の命令は、自由にしていくもの。

 神様が愛し合いなさいと言われるなら、愛すること。もし愛し合うことが困難なら、そんな時は愛し合えないことを正直に告白し、愛し合えるようにしてくださいと祈ること。

 御心を理解して、そう生きられるようにと願いつつ生きる歩みは、日当たりの良い、温かなところを進むような快適さ。

 みことばを受け止め、祈りでことばを伝える。呼吸をするように神様と語り合う。

 この生き方のコツは無理をしないこと。
 従いきれないなら、正直にそれを認めて、従いたいので助けてください、と祈る。大胆に神様に甘えたらいい。信仰が薄いと思えるときは、信仰も与えてください、と祈ればいい。信じる力も神様が与えてくださるから。
 神様はご自分の一人子を私たちのために差し出された方、だからこそ私たちの祈りを軽んじたりすることは決してない。

 私たちは自分に与えられた言葉に応えていきたい。自分を神様に明け渡していこう。

 御心を知って祈る祈りの一つにとりなしの祈りがある。だれか他の人のために祈るということ。
 それは神様との共働作業である。キリストが、すべての人々を愛されていることを知るとき、自分も誰かのために祈りたくなる。

 私たちは祈られて生きている。誰かが私のために祈ってくれている。それは素晴らしい事実。だからこそ、私たちも祈る。
 イエス様ご自身が、今も私たちのために祈ってくれているから。

 とりなしの祈りを思う時。イエス様の祈りを思い出す。自分を十字架にかけている人の為にイエス様は祈られた。「父よ、彼らをお赦しください。」と。
 この血を吐くような十字架の祈りも、御心にかなった祈り。

 イエス様が今でも祈ってくれている。
 

 とりなしの祈りをする、それは御心にかなった祈りと言わざるを得ない。私たちが友のために祈るとき、祈りは相手に恵みをもたらすだけではなく、祈っている私たち自身も変えていく。


「私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」
ヨハネの手紙 第一 5章15節

 祈りは聞かれる、と言うと「神さまが耳を傾けてくれる」と「神さまが願いを叶えてくださる」の2つの意味にとれる。15節は、この2つが1つであることを語っている。
 すなわち、神様が聞いてくださるということは叶えられているということ。
 

 私たちの神様は祈りを聞かれる方。

 今日、私たちは何を祈るのか。
 神様が願っているのは、求めていることは何なのか。それが分からなければ、教えてください、と祈ればいい。

「祈りを聞かれる方よみもとにすべての肉なる者が参ります。」詩篇 65篇2節

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〈コメント〉

 神様は祈りを聞かれる方。
 本当にそうだと思います。自分からしたらこんなことを祈ってもいいのか、と思うようなそんな祈りでさえも神様はいつも聞いてくださり、平安を与えてくれます。感謝です。

 私たちは友のために祈ることができる。それはすごく嬉しいことですね。
 友のために祈ることで恵みをもたらすだけでなく、自分自身も変えられていく。そのことを聞いた時、今祈っているこの祈りは今しかないできない祈りなんだな。と感じました。
 なんだかすごく特別な時間を過ごしているような気持ちになります。
 だから、こうやって教会に来て交わっているこの時間も、今しかない特別な時間なんだな、って思いました。

 私は周りの方々に祈られてきました。
 そんな信仰の先輩方から祈られ、今交わることができるのはとても幸せなことです。
 だからこそ、この地上でのお別れは悲しいものだなとも思います。でも私たちには永遠の命が約束されていて、天の御国でまた再会できる。何にも変えられない喜びでもあります

 愛する兄弟姉妹とこの地上でともに過ごすことができるこの一日。
 今日という同じような日はもう二度と来ないその時間。生きている今でしか味わうことのできない、喜びです。

 神様は祈りを聞いてくださる方。
 神様の御心を知り、神様と共に歩んで生きたい。また教会の人たちとも共に御心を知り、共に歩んで生きたいです。

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