「変わりましたなー」と時々言われます。
山陽教会から吉備教会に来て、私に若干の変化が生じているのです。
この春まで働かせていただいた山陽教会は初めての任地であり、とにかくこの教会のために・・という気持ちがとても強かったように思います。赤磐市から出ることは極力避け、場合によっては教団の牧師会も休んで聖書のクラスなどを優先しました。
他教団と連携することはもちろん、自教団の教会との関わりも希薄でした。
それはそれで、一応理屈はあって、山陽教会の群れが元気になり、力を持つ教会になることが結果的には教団の底上げになるから、という目的がありました。
多分それはそれで間違っていません。
ただ、教会を移った今はちょっと、いやかなり意識が変わりました。
今度は、どんな教会とも、さらにはどんな教団とも協力したい、と思うようになったのです。
もちろん吉備教会の働きに手を抜くつもりはまったくありません。でも、どうしても視野の中に日本全体の教会のことが意識されるようになったのです。
聖約教団が日本の宣教に貢献するには、というような視点で考えるようになったのです。
これはおそらく「キリストのからだ」についての聖書の理解が深まったタイミングと、新しい任地に移ったタイミングが一致して、気持ちが大きく切り替わった、ということだと思います。
クリスチャンはみんなでキリストのからだを作ります。それぞれの強さは、誰かの弱さのためであり、私達は互いに支え合い、生かし合うために出会うのです。それは、各教会内でも起こりますが、教会同士もまたそうなのではないか、と思うのです。あるいは、教団同士でも。
自分が遣わされている教会だけが元気になればよい、ということではないのですね。(今更!)
この教会の長所が他の教会の役に立ち、この教会の弱さが他の教会によってサポートされる。強さも弱さも、互いのため、組み合わされるため。そういう関係を神様は願っておられるのではないでしょうか。
ただ、「協力」というのは簡単なことではなく、互いの違いを受け入れ合ったり、大胆に信頼したり、食い違いのリスクを覚悟したり、というストレスも生じます。でも、それは結局のところ「互いに愛し合いなさい」というキリストの命令の実践なのです。
愛と信頼があれば、積極的に協力するべきだと思うのです。それは自教会だけで生み出せるものよりも、ずっと効率的に、そして深みのある実を結べるのではないか、と感じるのです。
何よりも、まだクリスチャンでない人々は、いろいろな教会同士が豊かに協力しあっている空気の中に、聖書の真髄とも言える真実な愛を見出すことができるでしょう。
具体的に始めたことは、他教会や他団体の牧師との関わりを喜ぶこと、他教会がしているイベントなどに行ける時は行ってみること、などです。無理はしません。事務作業に追われるような仕事は増やしません。どちらかというと意識の問題です。
恥をさらすとするなら、私は今までは「自分の業績」へのこだわりがありました。教会の人数が増えていくことを、自分の成果と錯覚し、虚しい誇りを覚えていたのです。しかし、それはかえって自分への束縛となり、高ぶりになりました。
無用な自意識が、自分を不自由にするのです。私の内におられるキリストは、そんなみっともない歩き方はなさいませんでした。
これからは、「キリストの働き」を「みんなで」進めて、それを「みんなで」喜びたいと思うのです。そこに平安と希望があるのです。
「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、
ひとりひとり互いに器官なのです。」ローマ12:5