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「イエス様が私に与えてくださったもの」/Rieちゃんの信仰の体験談

 昨日の聖約教団ユース・ミニストリーで、吉備教会のRieちゃんが証しをさせていただきました。原稿をいただいたので、ここに載せておきますね。

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 「りえちゃん変わったなぁー!」と、最近友達からよく言われます。
 それもそのはず。今年の4月までの私は、教会の中で「救われた確信がないんです…」とか「奉仕がきついんです…」とか、救われた喜びよりも不安や疲れのほうが勝って、イエス様や聖書のことを外部の人に話すことはほとんどありませんでした。
 そんな私がなんと今では、地元の友達を教会に誘い、イエス様のことを焼肉屋で父に語り、仙台まで行って大学時代の友人に語り、美容院で髪をブローされながらスタッフさんに熱弁(笑)隙あらば「語っていいんですか!?」と喜んで伝道する人に変えられたんです!!
 この7カ月で私に何が起こったのか!?今回は 3つのポイントに分けて少し詳しくお話させて頂こうと思います。
 
ポイント①
「イエス様を信じる信仰が与えられた」

 
 実は私はクリスチャンになって4年目なのですが、4月までは聖書に対する疑いがありました。なぜかというと、親しくしていたクリスチャンの方との交わりの中で、「聖書にはぬけがある…書き換えられている」と教えられていたからです。それを聞いて、聖書も100%は信頼できないのか…と「御言葉=神様の言葉」と純粋に思えていませんでした。
 私は確かなよりどころを求めて、地球外の宇宙意識からメッセージを受け取るスピリチュアル系の情報にも惹かれるようになります。「自分の心惹かれるもの、楽しいことをすればいい…それこそ正しい道だ。」という内容です。クリスチャンの内には聖霊様がおられるのであれば、自分でよいと感じたことが正しい…というのはあっているように思えました。
 私はスピリチャルな情報にどんどんはまっていき、ついには、臨死体験から真理を悟ったと語る人の本に辿り着きました。そこには「死後の裁きはなく、すべての人が無条件に大いなる愛の一部として一つになる」ということが書いてありました。私は自分が本当に救われているのか自信がなかったので、「この考え方のほうがいいな…」と思うようになりました。
 
 ですが、ある日ふとしたことがきっかけでクリスチャンである母にこの考えを話すことがありました。そうすると母が「この話を信じるということは、イエス様が必要ないということよ。聖書よりも、この著者の体験を信じるの?」と心配そうに言いました。
 私はこの時ようやく目が覚めました。結局、クリスチャンになってからも、神様を100%信頼できず、苦しくなり、また自分の力でなんとか真理への道を探そうとしていたのです。でもそんな私を、イエス様の存在が引き留めて下さいました。「このままではいけない。私にはやはりイエス様が必要です」と、スピリチャルな情報から完全に縁を切ると決意しました。
 そして、斉藤牧師からもう一度、基礎から聖書の学びをしていただくことになりました。その中で死海写本の存在も知り、聖書の不変性も確認できました。すると今までになく御言葉が新鮮に響いてきて、私をどんどん励ましてくれました。
 
 聖霊によらなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。
 (第一コリント12:3)

 

 あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。

 その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。

 それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまっていなさい。(第一ヨハネ2:27)
 
 私の内には、イエス様の十字架の贖いと復活を信じて罪赦された証拠として、聖霊様がいて下さることが分かりました。そして、このときから「御言葉に信頼していいんだ!」と心から思えて、すごく心が軽やかになったことを覚えています。イエス様を見つめて御霊に導かれて進むクリスチャンとしての歩みが、ようやく踏み出せた時でした。
 
ここでポイント②
「罪の気づきと赦しが与えられた」

 
 7月。私にとって転機となる学びがありました。それはガラテヤ5章からの学びでした。
この章では、愛の性質が語られると同時に、罪の性質についても語られており、「その罪によって愛することが妨げられる」と書いてありました。
 
 具体的な罪とは、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そう言った類のものです。(ガラテヤ5:19~21)
 
 斉藤牧師から一つ一つの罪について説明してもらった時、私の心に「そねみ」と「ねたみ」が留まりました。今思うと本当に聖霊様の働きだった思います。
 「そねみ」とは、ひがむこと。自分より優れている人を見て、私なんて…とすぐに比べ、相手や自分を責めること。また「ねたみ」とは、人と自分を比べること、相手を引き下げたいと思うこと。だと言われました。
 それを聞いた時、私は「この傾向がよくあります…」と言いました。
 斉藤牧師は続けて「相手と自分を比較して優劣をつけることは、相手を自分が愛されるための手段にしている。相手の顔色を見て遠慮した発言をすることも同じこと。私たちは一人ひとりがかけがえのない素晴らしい存在なのに、比較することが必要なの?」と尋ねられました。私はそれを聞いた時、すごくイライラしました。
 素直に必要ないと言えませんでした。私の人生は、まさに比較の人生だったからです。いつも相手と自分を比較して、少しでも自分をよく見せて愛してもらおうと必死でした。だから「比較することが必要なの?」と言われた時、まるで今までの人生が全て虚しいものだと言われたようで、イラっとしたし、同時にすごく悲しくなりました。
 自分には、そんな大きな罪はない…とどこかで思っていましたが、私の人生は罪まみれだったのです。そしてこの罪は自分では、どうすることもできないくらい、私に染みついていました。だとしたら私はいつも周りの人を自分が愛されるための手段にしていて、誰かを心から愛したことなんで一度もない…ということです。それは本当に虚しい人生です。
 
 でもイエス様はこんな私のために十字架にかかって下さいました。愛を知らない私のために、自ら犠牲になって愛を示して下さったんだと思ったら、心から感謝があふれました。
 
 そして、祈りしました。
 天のお父様、「私にはそねみ、ねたみ、比較する罪があります。どうか赦してください。
 この罪を自分ではどうすることもできません。古い自分をあなたにお委ねします。あなたが愛せるものへと私を変えて下さい!」
 
その後、どうなったかというと、

ここでポイント③
「愛する心が与えられた」

 
 「御心にかなった願いは何でも聞かれる」とよく聞きますがまさにその通りでした。ゆっくりとですが徐々に、心が変えられていきました。
 本当にひどい話ですが、昔の私は、自分の評価が下がって周りからかまってもらえなくなるのを恐れて、無理してでも自分をよく見せようと、きちんとして、相手のだらしないところや失敗を見ると、自分にとって都合がいいから許せていたんです。まさに自分が愛されるための手段として、目の前の人がいました。
 
 でも今は、「本当は私これ苦手なんだよね。これ以上はきつくてできないなぁ。」とか
今まで自分の評価が下がることを恐れて言えなかったことが言えるようになって、自分も完全じゃないと自覚しているから、相手の弱い部分や間違いも受け入れられるようになったんです。むしろ、その不完全さや弱さを補い合うために、一人ひとりがいて、共にいると豊かになれると思うようになってきました。
 
 そう思えたのも、私の罪をイエス様が十字架で贖ってくださっていて、弱くて欠けのある私に、「私の目にはあなたは高価で貴い。私はあなたを愛している」(イザヤ43:4)と何度でも言ってくださるからです。この御言葉を思いだす時、本当に神様は優しいな~愛されて幸せだな~と思います。
 こんな素敵なイエス様が、愛しておられるものを、私も愛したい!という思いも徐々に与えられて、教会のお一人おひとり、実の家族、職場の人、地域の人にも、温かい心で接することができるようになってきました。まだまだ、イエス様の似姿に作り変えられている最中なので、完全な愛には程遠いのですが、確かに4月の頃の私とは違います。心の中にはいつも心地よくて軽い温かいものがある感じです。それはきっと愛されている喜びなのだと思います。
 
 この喜びがいつも心にあって、この世の人々全員を救いたいというイエス様の思いがあるから、私は出会った人たちに福音を語ります。そしてその福音によって、一人でも多くの方が救われて、永遠の命を頂き、終わりの日に一緒に神様と直接お会いできること!そこにイエス様の喜びがあって、私の喜びもあります!
 
「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
(ルカの福音書 15:3~7)

 
 私が変えられたのは、「イエス様を信じる信仰が与えられたこと」「罪の気づきと赦しが与えられたこと」「愛する心が与えられたこと」この三つがあったからです。そしてこれは全て神様のわざです。自分の努力では成しえませんでした。クリスチャンになってもフラフラと勝手に歩みイエス様のほうをなかなか見ることができなかった私を、忍耐をもって導き、確かな救いの喜びが感じられるまで、誠実に寄り添い続けて下さったイエス様に、心から感謝します。この素晴らしい神様の御業が、ますますこの地上で表されていきますように!

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